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旧吉野川・今切川の水争いに尽力した三木與吉郎(第12代)

 ここでは、昭和初期に旧吉野川と今切川における水争いの解決に尽力し、旧吉野川・今切川両河川の潮止め樋門の建設におおきく貢献した地元の名士「三木與吉郎(みきよきちろう)(第12代)」を紹介します。


略歴

三木與吉郎(第12代)

 1875年(明治8年)11月27日~1938年(昭和13年)6月23日 (満62歳没)
 徳島県板野郡松茂町出身の政治家(衆議院議員・貴族院議員)、実業家
 先代(第11代)の長男として松茂町中喜来で生まれる。後に與吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。
 1915年(大正4年)、徳島県郡部から衆議院議員選挙に出馬して当選。
1918年(大正7年)、貴族院議員に選出された。貴族院議員3期目の任期中に逝去。


功績

流域図 旧吉野川・今切川は、少雨などにより河川の流量が減少すると海水の遡上を抑圧する力が衰えることから、両河川流域の農地の塩害による被害はしばしば深刻なものとなった。特に1930年(昭和5年)の夏は日照り続きで河川の流量が極度に減少したことから、大塩害が発生したが、この大塩害の際、旧吉野川と今切川の分派地点となる三ツ合堰において、旧吉野川沿川農民と今切川沿川農民との間で流血の惨事が発生するなど、水争いが大問題となった。
 このような水問題を解決するために、両川の河口に潮止樋門を建設し、用水供給を確保することが急務とされた。
 三木與吉郎(第12代)は、衆議院議員・貴族院議員を歴任していたところ、これら樋門の建設のため、1934年(昭和9年)に「吉野川普通水利組合(後の吉野川土地改良区)」を結成し、地元から国・県に樋門建設の要望を提出した。その一方で、不足する建設費を自らの莫大な寄付金でまかなうことによって建設事業を推進した結果、まず第一期工事として今切川潮止樋門(今切川ダム)が昭和11年に完成した。
 次いで第二期工事として旧吉野川潮止樋門(松茂ダム)の建設にとりかかったが、道半ばで逝去することとなる。
 なお、旧吉野川潮止樋門の着工後、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入し、建設資材の高騰や工事現場への空襲などにより工事は大きな痛手を受けたが、終戦後工事が再開され、1949年(昭和24年)に艱難辛苦を乗り越えてようやく完成を見た。

今切川潮止樋門(今切川ダム) 旧吉野川潮止樋門(松茂ダム)
 今切川潮止樋門(今切川ダム)
(クリックで当時と現在の写真)
旧吉野川潮止樋門(松茂ダム) 
(クリックで当時と現在の写真)

胸像

 1949年(昭和24年)11月21日、吉野川普通水利組合により旧吉野川潮止樋門畔に築像。
 水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)による旧吉野川河口堰の完成に伴って旧潮止樋門が撤去されたことから、旧吉野川河口堰操作所敷地に移設された。
 三木翁は今も流域の人々の暮らしを見守っている。
 三木與吉郎(第12代)胸像  旧吉野川潮止樋門竣工の碑文(クリックで解説へリンク)
 三木與吉郎(第12代)胸像 旧吉野川潮止樋門竣工の碑文
(クリックで訳文・解説へリンク)
独立行政法人水資源機構ロゴマーク
独立行政法人 水資源機構
旧吉野川河口堰管理所

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