文字サイズを変更できます。
文字サイズ小
文字サイズ標準
文字サイズ大

早明浦 〜湖底のふるさと〜

かつてそこには、村があった。早明浦の「光」と「陰」。

忘れられてはならない。忘れさせてはならない。

早明浦ダムは「四国のいのち」と言われ、四国四県の百八十四万人の水道用水、産業経済の発展に不可欠な工業用水、農業用水の供給、吉野川下流に住む百万人の生命と財産を洪水から守っていること等、その「光」はよく語られてきました。
他方、ダム完成三十有余年を経て、私たちは、その「陰」である水源地域、特に先祖代々の土地、歴史、文化、人々の繋がりを湖底に永遠に失った三百八十七世帯千三百余人の人々の悲哀と今の暮らしに心を寄せることがどれだけあるでしょうか。

川村千枝子氏(土佐町田井)は、その湖底に沈んだ水都の歴史、くらし、生き様を「ふるさと早明浦」で哀惜の情を込めて描きました。
水資源機構吉野川局では、「ふるさと早明浦」を軸に、著者のご主人である川村雅史氏(土佐町)のほか、多数の地元の方々のご協力を得て編集し、写真展を開催してきました。そのうち一部を掲載いたします。

「早明浦」は忘れられてはならない。忘れさせてはならない。

早明浦ダムが出来る前の吉野川
▲早明浦ダムが出来る前の吉野川(赤線が現在のダムの位置)

川とともに生き川とともに泣きました。

細崎山は、現在、早明浦ダムの湖面に山頂だけを残して全体をすっぽり水没させていますが、ここはその昔、本山一揆やそれ以前の戦乱の時代の古戦場となったところです。
昔から大渕の人が厳島神社の御神体を受けて弁天様として祭っていましたが、今は水の塔が建っており、この塔の下にかつての弁天様が祀られています。
旧吉野村二代村長となった川村元衛が政府不要存置林を自費で払い下げて村の共有財産としました。「細崎山」もその一部です。戦中、戦後の食料難の時代には、中島集落の人が小作で入山し、山頂までイモ類やその他の畑作物を作り、収穫して中島の人々の生活をうるおしました。

大渕共有地「細崎山」
▲大渕共有地「細崎山」(現 中ノ島)

たくさんの思い出

豊かな恵みを受けていた頃の吉野川の風景
▲豊かな恵みを受けていた頃の吉野川の風景(嶺北漁協所有)
地蔵寺川で泳ぐ子供達
▲地蔵寺川で泳ぐ子供達

人々は川の場所のひとつ一つに名前をつけて我が家の庭のごとく、川とともに生き、川とともに泣きました。この川も山や畑と同じく、川漁の資源の宝庫であり、山人の生活をうるおし、喜びも苦しみも分け合った友であり、人生の思い出のよりどころでした


柿ノ木の甘柿
▲柿ノ木の甘柿(樹齢300年・目周り3m、樹高30m)

柿ノ木集落には、目通り3m、樹高30m、樹齢300年と言われるみごとな甘柿の木がありました。村の男たちは、この柿の木のどの枝まで登れるか競ったもので、山腹のうねに生い立つ柿木の枝に登ると直下に吉野川の清流が広がり、その高低差は100mを優に越しました。この柿の木は昭和41年のダムの補償物件の中でも立木としては最大のものでしたが、補償後に枯れたそうです。


古味のお堂での敬老会
▲古味のお堂での敬老会(昭和43年4月5日)

水没離散直前、古味のお堂で8名の敬老会が開かれました。右手に吉野川が見えます。古味の船場から上流の船戸(大川村)まで高瀬舟で荷物を運びました。昭和十年代中頃以前は、古味から上は道幅が狭く、牛馬で運ぶことができない物資を運搬するには川の方が便利でした。昭和15年ころバスが大川村高野まで通い始めましたが、それまでは、白滝鉱山のサイドカーが人を乗せて時々走っていただけでした。


地主神社の木を切る
▲地主神社の木を切る(樹齢600年)

戦後、地主神社の杉の木を伐採して、不便な大渕への道をつけかえるのに使用しました。直径一丈三尺もあった巨木です。教諭給与が月1万円の時に200万円で売られました。

早明浦ダムの建設事業が開始。やがて「四国のいのち」へと…。

吉野川総合開発計画の中核であり「四国のいのち」といわれる早明浦ダムの建設事業は、昭和38年4月から建設省の手で進められ、昭和42年4月から水資源開発公団が事業を承継して、昭和50年3月に竣工、4月より管理に移行しました。

早明浦ダム建設中の状況
▲早明浦ダム建設中の状況(昭和45年)
昼夜に渡り工事を行いました
▲昼夜に渡り工事を行いました
早明浦ダム完成後の写真
▼早明浦ダム完成後の写真

このページのトップへ

香川県高松市天神前10-1
TEL 087-835-6600 FAX 087-835-6604
ご意見・ご感想|お問合せはこちら

Flash Playerをダウンロード AdobeReaderをダウンロード

アクセスカウンター