筑後大堰建設の背景  
   
筑後川をとりまく北部九州地域は、近年の人口の増加、社会・経済の発展にともない、水需給のひっ迫した地域となっています。
そこで昭和38(1963)年に、北部九州の水資源の開発促進を目的とした北水協(北部九州水資源開発協議会)が設立され、水需給計画の構想が策定されてきました。
これらの構想が、国の水需給計画である水資源開発基本計画(フルプラン)に反映され、江川・寺内ダムや筑後大堰、福岡導水などの利水関連施設が建設されました。
これら施設の建設や整備によって、日々の水不足への心配が少なくなりました。
昭和28年6月の洪水 久留米市内の様子

昭和28年6月の洪水 久留米市内の様子
一方、筑後川はかつて「一夜川」とも呼ばれていたように、ひとたび氾濫すると肥沃な農耕地を一夜にして荒地に変えていました。
昭和28年6月に発生した豪雨は、大きな被害を流域にもたらしました。
筑後川の歴史は洪水との闘いでもあり、このような洪水に対して、古くから河川改修が行われ、近年はダムによる洪水調節対策なども行われています。
筑後大堰は、昭和48(1973)年に瀬の下地点の計画高水流量が、6,500m3/sから9,000m3/sに引き上げられたことから、利水のほか治水面の機能を持つ堰として建設されました。