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2010年6月29日 副所長 兼 牧尾管理所長:竹越 稔  
#012 !!!牧尾さんが牧尾ダムに立ち寄る!!!

先日、信州路の旅の途中という、大阪在住の牧尾さんご夫婦が、たまたま牧尾ダムのことを知り、名字と同じ「牧尾ダム」に興味をもち、「牧尾ダム」の由来を尋ねに訪問されました。

ということで、今回は、牧尾ダム命名の由来についてお話させていただきます。
最初に、牧尾ダムはどういうきっかけで造られたのかをお話しいたします。

お話しは約60年前まで遡り、二人のキーマンが登場します。

一人は戦前から長い間、知多半島の深刻な水不足をなんとか解決しようと考えていた農民「久野庄太郎」さん。
水不足解消に目を付けたのが木曽川の水。木曽川の水を知多半島まで引っ張ってこようと考えたわけです。

そしてもう一人は、同じ考えを持っていた安城農林高校の先生だった濱島辰雄さん。
 
久野氏(左) 濱島氏(右)

久野さんを取材して書かれた新聞記事「木曽川から用水を引く」を見た濱島さんは、さっそく久野さんを訪ね、お互いの思いを語り合う中で意気投合した二人は、知多半島に木曽川の水を引こう、用水路を造ろうと活動を開始したのです。

初めは地域の農民から説得し、次第に活動の輪が広がり市町村や県等の行政を動かし、思いがけず当時首相であった吉田茂との面会の機会を与えられるという運も味方にして、国家プロジェクト「愛知用水事業」は始まったのです。

この愛知用水事業の水瓶として、木曽川の上流の王滝川にダムを造ることになったわけです。

この世紀の大事業をスタートさせるには、予算の確保が重要な要素となっていました。
戦後まもなく始まった愛知用水事業は、当時の国家予算だけでは事業資金が不足していたため、世界銀行からの融資を必要としていたのです。


当時の「牧尾橋」
  ダムの計画段階では、世界銀行側が推奨する牧尾橋地点のロックフィルダム案と、日本政府が提案する二子持地点のコンクリートダム案(現在の牧尾ダム地点より少し下流)との技術協議があり、ダムの位置と建設方式の協議が続けられておりました。

つまり「牧尾橋ダム」と「二子持ダム」との名称で設計検討が進められていました。

その後、現地調査や詳細設計等検討した結果、最終的に牧尾橋地点のロックフィルダムに決定し、ダム地点に架かっていた「牧尾橋」(木製のつり橋)から、名称は「牧尾ダム」となりました。

ただ、牧尾橋はどうして牧尾橋と命名したか? 実はこの地域の字名でもなくはっきりしていません。

なお、愛知用水の歴史等詳細につきましては、当管理所のHPに掲載中(※2012年4月現在では水資源機構 本社HP)の作家高崎哲郎氏による「水の思想・土の理想」をご覧ください。

入梅となり恵みの雨も降り、現在ダムの貯水量も減少から漸増傾向となっており、需要量の多くなる夏に備えて十分貯留していくものと期待しております。

次回は、王滝村の地名の由来にまつわる話を紹介します。
 
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