木曽三川(きそさんせん)の洪水と治水の歴史

輪中の歴史

明治改修以前の輪中分布図

明治改修以前の輪中分布図

 長良川が伊勢湾にそそぐ木曽三川の下流域は、古くは長良川、木曽川、揖斐川が網状に流れて洪水のたびに川の形を変えるといった有様でした。

 

 江戸時代初期の1609年には、木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50kmにもわたる大堤防が築かれ、「御囲堤(おかこいづつみ)」と呼ばれるようになりました。「御囲堤」は、西国勢力の侵入を防ぐという軍事上の目的を持つとともに、尾張の国を洪水から守るための役割も果たしました。

 

 しかし、美濃の国では、対岸の堤防より3尺(約1m)低くしなければならないという制限があったため水害がしきりに起り、この地域の「輪中(わじゅう)」の形成をますます発達させることになりました。


 輪中とは、水害に悩まされた人々が集落や耕地を洪水から守るために、その地域全体を取り囲むように堤防で囲んだ地域をいいます。

 

 ここに住む人達自身の手で造られた輪中の歴史は、洪水との闘いの歴史でもあります。

宝暦治水(ほうれきちすい)

宝暦治水の工事箇所と当時の略図

宝暦治水の工事箇所と当時の略図

 江戸中期の宝暦4年(1754年)江戸幕府は、薩摩藩に木曽三川の分流を目的とする治水工事(いわゆる宝歴治水)を命じ、油島の締め切り工事などが行われました。

 

 工事はとても困難を極めましたが、多くの犠牲者を出しながらも、翌1755年に完成します。

 

  現在の千本松原は油島の締め切り工事によって造られた堤防のなごりです。

明治改修

明治改修計画図

明治改修計画図

 明治20年~45年(1887~1912年)にかけて、木曽三川の完全分流を目指して、明治政府は当時の国家予算の約12%という巨額な予算を投じた河川改修工事を行いました。


 主な目的は、

  • 洪水の防御をすること
  • 堤防内の排水を改良すること
  • 舟運路の改善をすること
  •  であり、この明治改修により三川の分流が完成し、木曽三川の下流部はほぼ現在の形となりました。

     

    ヨハネス・デ・レーケ/Johannis De Rijke(1842~1913)

     オランダ人で土木工学の専門家で、明治改修の立役者。

     明治6年9月に来日して28年間、日本の河川・港湾事業を指導。明治11年に木曽三川を彼自身で調査して、木曽三川の現状分析と河川改修の考え方や方策をまとめる。

     これに基づき明治19年明治改修計画が作成されて、翌年から改修工事が始まった。

    近代の洪水被害

    昭和三大洪水

     昭和34年9月26日東海三県(愛知・三重・岐阜)を伊勢湾台風が襲いました。この台風は、この地方に大きな被害をもたらし、5000人あまりの死者、行方不明者を出しました。

     また昭和35年8月には台風11号・12号による洪水で、翌36年6月には梅雨前線と台風6号による洪水で長良川が破堤し広い地域に大きな被害をもたらしました。

     この3つを併せて、昭和三大洪水と呼んでいます。

     

    安八町(あんぱちまち)破堤(はてい)水害

     昭和51年9月8日~14日の6日間、台風17号と停滞していた前線が重なって、豪雨が一週間にわたって続き、長良川の右岸が安八町内で破堤しました。

     安八町や墨俣町の3000戸が水浸しになり、28万人が被害に遭いました。特にこの地方は海抜ゼロメートル地帯なので、自然に水がひくまでに時間がかかり、大きな被害になりました。