今回は一庫ダムができる以前のこの地域を流れる猪名川周辺の様子についておとどけします。
 猪名川流域の歴史は、発見された遺跡をみると縄文時代にもさかのぼる事になります。多くの遺跡が残るのは、弥生時代からですが、2000年以上の時を経て、猪名川流域も様変わりしてきました。

 北摂山地を源にする猪名川は、小さな盆地と谷を刻んで樹枝状に延びる支川を集め、余野川を合流した辺りで山地を離れ、伊丹台地と池田、豊中台地の間に広がる猪名川低地を流れ下り、淀川派川の神崎川に合流します。
 細長い列島に山地が背骨のように延び、山地に降る雨は一気に大平洋、日本海に流れ下り、ほっておけば洪水をおこしやすく、水枯れしやすいわが国では、社会の発展は川の水をいかに治めるかに懸かっていました。川の氾濫を恐れて丘陵や台地縁辺で遠慮がちに始まった人の暮らしは、稲作が始まる弥生時代以降、湧水から次第に小・中河川へと、技術力を高めながら暮らしの場を広げていきます。なかでも淀川水系に展開した大和朝廷は、大きな政治・経済力と渡来人がもたらした農耕技術をもって壮麗な前方後円墳を築造し、その技術を治水・灌漑事業に発揮して、土木工事を盛んに行いました。

 猪名川流域は、大和朝廷以来、誇大の中央政権を擁する五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)のひとつ摂津国にあって、畿内を結ぶ淀川水系を通じて政治・経済的にも、文化的にも、古代政権の力が浸透した地域でした。摂津山地南に開けた台地上は「猪名野(為奈野)」と呼ばれ、都の貴族がしなが鳥の枕歌とともにその荒涼とした情景を好んで詠んだ歌枕の地。また首都近郊の遊猟の地でもありました。
 歌に詠まれ、今も昆陽池は、この水の少ない台地上に水田を開発するため、奈良時代前半に行基が築いた溜池の一つ。溜池はその後、江戸時代になってさらに、台地一帯に数多く築かれます。古代に始まる溜池や用水路のような土木技術の革新は、それまで水田開発が不可能であった土地にも水田を普及させ、水不足で収穫が不安定であった土地の生産を安定させ、農耕をはじめ各種蚕業を飛躍的に発展させました。

 早くから水田が開発された淀川水系では、多くの荘園が設けられ、また高い技術の手工芸に支えられて土豪が生まれ、貴族は摂津や河内の国司となって大きな勢力を持つようになります。
 摂津では、源氏姓を贈られた清和天皇の孫経基の子満仲が、猪名川上流川辺郡の多田の盆地(川西市)に居を構え、多田院全盛の室町から戦国時代にかけて、猪名川流域で活躍した武将は、豊島郡一帯に勢力を振るった池田氏、多田源氏から分かれ能勢一円を配下に置いた能勢氏、そして伊丹氏、塩川氏らがいます。戦国末には池田氏の勢力は衰え、代わって成長した家臣荒木村重が伊丹に総構えの有岡城を築きます。その後、有岡城は天正7年(1579)に落城しましたが、猪名川下流の尼崎では江戸時代の一国一城令で城が築かれ、猪名川上中流域はさまざまな銘品の生産地、その集散地として発展します。

 江戸時代の猪名川流域はさまざまな産品を生み出すにぎやかな流域でした。上流の山地農村では、「三白三黒」と呼ばれた酒米・寒天・凍豆腐、粟・薪炭・黒牛を産出しました。中流部では多田銀銅山の銀と銅。下流を代表するものが、猪名川の伏流水を利用した池田や伊丹の日本酒。そして植木苗木。猪名川の水は友禅染めなどにも利用されました。


 一庫ダム建設にあたり、ダムの上流にあり、水没する事となったのが、
国崎地区です。戸数26戸。棚田を耕し山林の経営と伝統の一庫炭を作
っていたが、水没のためダム下流の大路次川沿いの新しい移住地に移り
ました。ほかに水没戸数6戸。神社1、発電所1件等が姿を消しました。

 ダムの3つの役割。猪名川の洪水&渇水
 についてお届けします。お楽しみに。
参考図書 一庫ダム:水資源開発公団一庫ダム建設所監修
Hitokura Dam's Wish 知明湖 流域の暮らしとともに:水資源開発公団一庫ダム管理所発行