知多半島では、大きな河川がなく、田や畑で使う水を川から取ることができませんでした。水不足は深刻で人々は井戸やため池をつくって渇水に備えていました。
しかし、1947年(昭和22年)は日照りが長く続き、ため池の水が無くなってしまい、作物が枯れるなど大きな被害が出ました。
水に困った知多半島の人々は、「木曽川から水が引けたら・・・」との夢があり、1947年の大干ばつをきっかけに、この夢を実現させようと立ち上がり、国家事業として愛知用水をつくるよう働きかけ、世紀の大事業といわれた愛知用水の第一歩を踏み出したのです。
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当時の資料では地域約16,000haの水田に対し約13,000のため池があったとされています |
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