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徳山ダム周辺の橋・トンネルの名称

徳山ダム周辺には、数多くの橋やトンネルがありますが、その名称は不思議なものも多く、旧徳山村の地名や風土資産をヒントにしています。

橋・トンネルの名称

 

 

01 塚白椿隧道つかしろつばきずいどう
塚白椿隧道つかしろつばきずいどう」の名は、隧道が抜ける塚村と村の民話「宮山の白椿」にちなみ名付けられました。この隧道は、塚村の字カン土段・字東山・字尾平・字村平・字松ケ崎・字塚奥山のホオヅキボラを抜け「ヒン谷」に出ます。村の中心地には白山神社が祀られています。村では神社をお宮と呼び、境内には二条天皇を祀る塚があります。この塚が村名の由来と伝えられています。神社が祀られるところは宮山と呼ばれ、神様が一晩で創った山と伝えられています。宮山のどこかに白い花が咲く白椿が一株だけ生えていて、根元には宝物が埋められていると大昔から伝えられています。しかし心に欲得のある者には絶対見つけることが出来ず、少年のように無心で純白な心の人しか見ることが出来ないと言われています。白椿の花弁のように純白な心を信条とする塚村は礼徳の村です。徳之山八徳物語で紹介される自然を敬う「塚の舟木おとらさん」に登場する礼徳の石は、お宮に在る「いわくら」といわれる不思議な石なのでしょうか。

02 シッペ由定橋しっぺよしさだはし
シッペ由定橋しっぺよしさだはし」の名は、橋の架かるシッペ谷にまつわる由定伝説にちなみ名付けられました。由定伝説では、追手の襲撃から逃れ白山神社境内の大杉に上った仁田四郎由定が、懐中の鳥目(お金)七袋半を地上の追手にばらまいた。地上に落ちた鳥目は蜜になり、這ってシッペ谷に入ったそうです。それからこの谷をカイコと呼ぶようになったそうです。シッペ谷の物語は、禅僧が手に持つ竹製の弓のように反った杖(竹箆)によく似た形状の谷を表現した名前です。

03 村平コト谷橋むらたいらことたにはし
「村平コト谷橋」の名は、橋の架かるコト谷と櫨原集落の中心地の字名「村平」にちなみ名付けられました。地名「村平」は村の平坦地を表現した地名で、櫨原集落のほぼ全戸がこの地に在りました。また、コト谷は村平の下方の端に位置する谷です。コト谷の意味は、この谷が出迎えやお別れの谷であり、村人が「元気で行ってらっしゃい」と言する場所であったのでこの谷名となったのです。

04 扇谷姫街道橋おうぎたにひめかいどうはし
「扇谷姫街道橋」の名は、この橋の架かる扇谷が越前との街道であり、谷奥の呼称地名「越前越」と天蓋倉・天の河原・女郎隠し岩・番岩などの秘めた地名にちなみ名付けられました。これらの姫地名は、昔から多くの姫が扇谷の越前越古道を通って櫨原村に入ってきたことを物語っています。また、扇谷の名前も姫達がこの谷から天蓋倉の広報にそびえる能郷白山を仰ぎ見たので「あおぎみる谷」が「おおぎ谷」に変わり「扇谷」となったのでしょう。

05 櫨原義徳隧道はぜはらぎとくずいどう
「櫨原義徳隧道」の名は、この隧道が抜ける櫨原村と村人の生活信条である義徳にちなみ名付けられました。この隧道は本郷の磯谷から入り、字勘谷を抜け櫨原の字梨ケ尾・字カンジラを経て櫨原集落入り口の扇谷に出ます。櫨原村は義徳を大切にする村でした。村には、村の生活信条を語る南朝方の武将仁田四郎由定をかくまった早川おむつの義徳伝が伝えられていました。村の白山神社境内には由定を弔う烏山神社がありました。

06 磯谷ベロリ橋いそんたにべろりはし
「磯谷ベロリ橋」の名は、谷奥のベロリ穴にまつわる伝説「白熊と猟師」の民話から名づけられました。橋が架かる磯谷の奥には、ベロリ穴と呼ばれる岩穴が在ります。その岩穴で神様の化身と思われる白熊と猟師が出会い約束をしました。この民話は山手村の人々が信用と信頼を大切にする生活信条を代表するお話で、「徳之山八徳物語山手のシキビ姫、猟師と白熊の信徳」に紹介されています。

07 カンノセ合掌隧道かんのせがっしょうずいどう
「カンノセ合掌隧道」の名は、揖斐川に鎮座する「カンノセ岩」と、行き交う人は誰でもこの岩に向かって合掌したことにちなみ名付けられました。この隧道は、字漆谷から入り字高山・字カンノセ・字ヤナゼ・字岩蔓を抜けて字磯谷に出ます。また、揖斐川には「カンノセ岩」といわれる大きな岩が鎮座しています。川辺の街道を行き交う人々は、誰もがこの岩に向かって両手を合わせました。それは、カンノセ岩が両手を合わせたような岩で岩の隙間から太陽の光は眩しく輝き、まるで黄金の観音様を拝礼する厳かな気持ちになったからです。きっと慈愛に満ちた八つの集落の八徳を代表する精霊が宿っているのでしょう。

08 漆谷上原橋しったにあんぎゃらはし
「漆谷上原橋」の名は、橋の架かる字地名「漆谷」と対岸の上原で行われた水田耕作への感謝祭「たつくり」の習慣にちなみ名付けられました。徳山では河岸段丘の平坦地を上原(アンギャラ)と呼びました。江戸時代に相場宗右衛門が戸入を流れる西谷川から上原まで用水を引いたのでこの地は本郷で一番広い水田となりました。この水路は村人が疎開する昭和終わりまで役目を果たす立派な作りでした。徳山村には旧11月9日を「たつくり」の日として小豆ご飯を炊いて神棚に供え水田に感謝しました。この日は、田作神が田に入り株を数えると言われています。

09 本郷カンタク隧道ほんごうかんたくずいどう
「本郷カンタク隧道」の名は、本郷に伝わる民話「増徳寺のかんたく和尚」にちなみ名付けられました。この隧道が抜ける「字クツ尾・字フッコ・字村平・字ホキの下」地内には揖斐川にそって本郷集落がありました。本郷のほぼ全戸と増徳寺・徳山小学校・白山神社・徳山城址・城平杉などがあります。民話の「カンタク和尚」は、とてもゆったりとした高徳な住職でした。あまりの高徳に境内の地蔵尊が和尚の代わりに托鉢して回ったと伝えられています。

10 クツ尾ゴンニョ橋くぞごんにょはし
「クツ尾ゴンニョ橋」の名は、本郷から能郷白山に参詣する「ゴンニョ」と呼ばれる山道にちなみ名付けました。徳山村の人たちはきつい山道「ゴンニョ」を登り、能郷白山神社にお参りするのが習慣でした。ゴンニョは権現のことで、徳山村では能郷白山のことを権現山と呼んでいました。

11 つだウズキ橋
「つだウズキ橋」の名は、この橋の架かる近くの呼称地名「キンタマウズキ」と呼ばれる断崖と、大垣藩に納めた年貢のつだをこの断崖から川に落とし、流送した故事にちなみ名付けられました。断崖の高さは百メートル程あり、下を覗くとゾクゾクと身震いする材木のオトシ場でした。またつだは、段木とも殿木とも呼ばれ、煮炊きに使う薪のことです。徳山村は、米の代わりにつだを年貢として収めました。揖斐川に流しつだ狩り(川狩り)の人たちの手で大垣まで運ばれました。

12 クツ尾ギソ見橋くぞぎそみはし
「クツ尾ギソ見橋」の名は、橋の架かる字「クツ尾」とこの橋から見上げる対岸の「上谷山」にちなみ名付けられした。この山は本郷の人々が見る初冠雪の山です。本郷の人々は初冠雪を正月の着衣初めに例えてギソ山と呼びました。新しい衣裳は、お正月に袖を通すのが習慣で、着衣初めと言いました。ギソ山を上谷山と表記されたのは、下開田を流れる上ノ谷の頭にあたる山なので「上谷山」と表記された。

13 クツ尾みかぐら橋くぞみかぐらはし
「クツ尾みかぐら橋」の名は、橋の架かる字地名「クツ尾」と焼畑(田畑)の総称「アラシ」で栽培されるヒエ・アワ・キビの収穫感謝祭「みかぐら」と呼ばれる習慣にちなみ名付けられました。徳山村の焼畑耕作は、4年間耕作をして二次林の再生放置(荒らしておく)を15年から50年します。再生した二次林をムツシと呼びました。このことから山畑を「アラシ」あるいは「ムツシ」と呼びました。旧暦の11月3日は「みかぐら」の日です。山畑で採れたお米「みごく米と呼ぶ」と小豆で小豆ご飯を炊き、神様に供え五穀豊穣の感謝祭を習慣としていました。

14 クツ尾杉の木橋くぞすぎのきはし
「クツ尾杉の木橋」の名は、橋の架かる字地名「クツ尾(クゾ)」と土砂災害を防ぐために植林された杉の木にちなみ名付けられました。徳山の人々は樹木を伐採した後には必ず植林をしました。この地は杉の植林地帯です。植林は土砂崩壊を防ぐとともに子孫に山の恵みを相続する大切な習慣でした。地名「クツ尾」はクゾと呼ばれていました。植物の葛をクゾと呼び、その根は葛粉にして食べる他に、根を干して漢方薬の解熱剤に、その蔓は行李(物をしまう箱)を編み、また繊維にして布を織りました。

15 本郷神楽橋ほんごうかぐらはし
「本郷神楽橋」の名は、本郷白山神社と能郷白山そして本郷白山神社で行われた恒例の元服式の神楽舞にちなみ名付けられました。能郷白山は、徳山の人々から権現山と呼ばれ、山頂には白山神社が祀られています。里宮の本郷白山神社では、元服式に能面を付けた神楽舞が奉納されていました。徳山村の能面は国の重要民族有形文化財に登録され、大切に民族資料館に保管されています。

16 岳洞山桜隧道だけほらやまさくらずいどう
「岳洞山桜隧道」の名は、山名「岳洞山」と徳山の山桜にちなみ名付けられました。岳洞山は、字クツ尾・字洞山・字白谷の頂点にそびえる山です。大昔のこと、根尾村から都を目指した継体天皇は馬坂峠から白谷へ入り、山桜をめでながらこの岳洞山を越えて西谷に入り、門入のホハレ峠を越えられたと想像されます。山桜は徳山の名物で、徳之山の山花唄には、「徳山名物数々あれどめでて楽しい山の花 晩春の徳山花盛り桜にシャクナゲ、山つつじ…、」と唄われています。また、徳之山の桜唄には「桜の名所数々あれど 揖斐川のぼって 秘境の地徳山湖畔に桜咲く なかでも自慢は山桜 一つ下開田、しつわら桜 二つ上開田の桜橋 三つ戸入のおすぎの桜 四つ門入入桜 五つ本郷のカンバの桜 六つ山手の鬼生桜 七つ櫨原四郎の桜 八つは塚のかんむり桜 ああめでたいな めでたいな」と唄われています。

17 五平能舞橋ごへいのうまいはし
「五平能舞橋」の名は、徳山城の城主徳山五平が橋の架かる白谷を渡り、うま坂峠を越えて根尾村に通い能芸能を楽しんだことにちなみ名付けられました。徳山村では殿様が厳しい年貢を取り立て、根尾村の能舞に注ぎ込んでいたので、殿様の評判はあまり良くありませんでした。白谷は根尾村との交流の玄関口でした。領主、徳山五平ばかりでなく徳山村の村人や、大古には継体天皇も白谷を渡られました。根尾村能芸能は、中世の面影を伝えるもので能の源流を残す能として国の重要有形民族文化財に指定されています。今も根尾村白山神社の祭礼として奉納されています。

18 しで原憂い橋しではらうれいばし
「しで原憂い橋」の名は、橋の架かる地名「しで原」と徳山民謡に唄われる馬坂峠を越えて根尾村と交流する山道にちなみ名付けられました。徳山民謡「憂いは馬坂、辛いは冠、法の遠いは田代谷」と大変辛い峠を越えての文化物流の生活をうたっています。地名「しで原」はこの地を開拓した祖先が、垂れ下がった野原を「垂の原」と呼んだのが地名の語源と想像されます。この「しで原」にも多くの山畑がありました。

19 クツ尾山之神橋くぞやまのかみはし
「クツ尾山之神橋」の名は、橋の架ける字地名「クツ尾」と徳山村で行われた山神様への感謝祭の習慣にちなみ名付けられました。山神様への感謝祭「山の溝」は、春と秋に山神様に牡丹餅を供え、山の恵みに感謝するのが習慣でした。地名「佐元」のサは、急勾配の谷を表現した早を意味する言葉です。モトは元・本の意です。矢のように早く流れる幾つもの沢が合わさるところを「サモト」と表現したのです。

20 洞山鬼岩隧道ほらやまおにゅわずいどう
「洞山鬼岩隧道」の名は、トンネルが抜ける「洞山」と洞山に伝わる鬼岩伝説にちなみ名付けられています。洞山は大昔の大地震で山が大崩壊し鬼岩が飛び出した跡に洞が出来たので、洞山と呼ばれるようになったそうです。鬼岩は、揖斐川に飛び込み徳山の人々から「鬼岩おにゅわ」と呼ばれ、魚採りや揖斐川のつだ狩りの目印とされていました。この洞山隧道が旧本郷の入り口です。

21 徳之山八徳橋とくのやまはっとくばし
「徳之山八徳橋」の名は、ダム建設のために八徳の心で故郷を提供してくれた徳山八集落の人々の大恩に対し、感謝の気持ちを込めて名付けられています。徳山村は二万二千年以前の旧石器時代から始まる長い歴史を持つ村でした。村は、本郷・下開田・上開田・山手・櫨原・塚・戸入・門入の八集落で構成されていましたが、徳山ダム建設のため昭和六二年三月に閉村し全戸が離村されました。洪水災害に苦しむ揖斐川下流域の万民のため故郷を提供してくれた徳山村の大恩に対し感謝の心を忘れてはなりません。橋の下の湖底には、大昔の地震で対岸の洞山から抜け出した「鬼岩」と呼ばれる鬼の姿をした大岩がデンと座ってます。この鬼岩は「徳之山八徳物語」に登場する地割る鬼の化身なのでしょう。

22 ナギ太郎鬼岩橋なぎたろうおにゅいわばし
「ナギ太郎鬼岩橋」の名は、「鬼岩」の地名に因んで名付けられています。その昔、この橋の対岸の山が崩れた時、揖斐川に大きな岩が転がり落ち、その岩が鬼の顔に似ていたことから、鬼岩と名付けられました。山の木を伐採して山を荒らすと鬼のナギ太郎が暴れると伝えられ、橋が架かる「洞戸中洞」の岩壁もナギ太郎が暴れた跡と言い伝えられています。

23 簗瀬立戸橋やなぜたっどばし
「簗瀬立戸橋」の名は、「ヤナゼ」の地名に因んで名付けられています。この橋の下には、まるで戸が立ったように見えたことより「簗瀬タッド」の名前が付いた滝がありました。滝の下あたりには簗を仕掛ける良い場所があった事から、この地は「ヤナゼ」と言われるようになりました。この簗でアユがたくさん捕れたそうです。

24 乙女栃山橋おとめとちやまばし
「乙女栃山橋」の名は、漆原乙女開祖伝説に因んで名付けられています。この橋の下、揖斐川の辺に漆原村開祖の乙女が大切にした栃の木山があり、人々は、「オトメトチヤマ」と呼んでいました。栃の実が大事な食料であった時代、栃の木一本毎に持ち主が決められていたのです。

25 扇間歩危橋せんまぼきばし
「扇間歩危橋」の名は、「扇間歩危」の地名に因んで名付けられています。橋が架かる地点は眼下に揖斐川がせまり大変危険な所で、扇間家の人が転落したため「扇間歩危」と呼ばれてきました。徳之山では、通行に危険な場所を歩危・猫廻し・犬返りなどと言います。二条歩危・山伏歩危など人名等が付いた所は、その人が誤って転落したことを伝えています。

26 漆原樅の木橋しつわらもみのきばし
「漆原樅の木橋」の名は、「樅の木」の地名に因んで名付けられています。この辺りは樅の木が多く、「樅の木」にはひときわ大きな樅の木があったということです。徳之山は昔から雪崩や土砂崩れが多く、斜面の家が流されたこともありました。この雪崩や土砂崩れは、鬼のアワ姫やナギ太郎が暴れて起こしたともいわれています。樅の木は、雪崩や土砂崩れから村を守りました。漆原の人々がいつも平和に暮せたのは、樅の木の山を大切にしたからだと伝えられています。

27 漆原宮橋しつわらみやばし
「漆原宮橋」の名は、漆原集落の地名に因んで名付けられています。この橋の下には漆原集落がありました。その漆原の中心には杉や檜の老木でおおわれた鎮守の森・春日神社があり、「宮」と呼ばれていました。「宮」の近くの「的場」では弓術の稽古が、また「高札」では徳山代官が高札で村人に告示した等々、漆原村の人々のさまざまな歴史が刻まれています。

28 麻蒔ブナ橋あさまきぶなばし
「麻蒔ブナ橋」の名は、「麻蒔ブナ」の地名に因んで名付けられています。この橋が架かるチシャタニ上流には、「麻蒔ブナ」と呼ばれている所があります。この谷は、木工製品の材料に適したチシャの原木が多かったことよりチシャタニと呼ばれています。この谷の上流には大きなブナが群生し、春の到来とともに芽吹くと、村の人々は山畑(アラシ)に「麻の種」を蒔いたということです。長い冬を耐えしのんだ山里の人々は、大切に守り育てた樹木が教えてくれる季節の変化によって春の訪れを喜び、これを農事暦にしてきたのです。

29 漆原乙女隧道しっわらおとめずいどう
「漆原乙女隧道」の名は、この地を拓いた先祖がこの地にそそいだ血と汗に思いをはせて欲しいとの思いで名付けられています。下流からこの隧道を抜けると旧漆原村(下開田)の集落に入ります。漆原村の開祖は金の鎌で漆の原野を切り開いた17才の乙女であったと伝えられています。

30 鏡山恵水橋かがみやまけいすいばし
「鏡山恵水橋」の名は、「鏡山」の恵みに因んで名付けられています。「鏡山」に降り積もった雪は、鏡のように陽の光を反射して里を明るく照らし、やがて、橋が架かる「上の谷」に豊富な水となって湧き出します。この水が濃尾平野を潤し恵みをもたらす、という意味で名付けられています。

31 道場山隧道どうじょうやまずいどう
「道場山隧道」の名は、「道場山」の地名に因んで名付けられています。この隧道が抜ける山の名は「道場山」です。道場山は、下開田の道場(お寺)に必要な材木を供出した故事から名付けられています。明治13年2月に下開田の道場が焼失した時、この山の檜材を伐り出し再建したと伝えられています。下開田の里人は、道場山の檜をことのほか大切に守り育てました。この隧道の名には、ここを通過する度に先人の徳に改めて敬意を表したいとの思いが込められています。

32 雪姫万丈滝見橋ゆきひめばんじょうたきみばし
「雪姫万丈滝見橋」の名は、橋から見える院谷三滝の一つ万丈滝に因んで名付けられています。滝水は鏡山の雪姫が化身した聖なる水です。鏡山・着衣両山の雪が解けて大地にしみこみ、院谷西側の尾根にある「ヌタノ」と呼ばれる泉に湧き、その泉のほとりには大きな梨の木や広い山畑があったと伝えられています。

33 美徳千丈滝見橋びとくせんじょうたきみばし
「美徳千丈滝見橋」の名は、橋から見える院谷三滝の一つ千丈滝に因んで名付けられています。橋から手の届きそうな「千丈滝」は、苔むした岩間を縫うように落下し、初夏には石楠花の花が咲き、滝からの冷風が肌に心地良く、一億年の眠りから覚めた水は濃厚な味です。この橋では、そんな美しい滝の持つ徳を実感できます。また、滝水に打たれ修行すると邪念が消え、心清らかになり、進んで徳の行いをしたくなると言う、「徳之山八徳物語」ゆかりの滝です。

34 院谷百丈滝見橋いんだにひゃくじょうたきみばし
「院谷百丈滝見橋」の名は、橋から見える院谷三滝の一つ百丈滝に因んで名付けられています。院谷の三つの支谷にかかる三つの滝は、それぞれ百丈滝・千丈滝・万丈滝と名付けられています。この橋から見上げる高い滝は、「徳之山八徳物語」の百丈滝です。鏡山の「美徳石」は、下開田の仙人「美徳翁」が、人々が洪水や干ばつで困らないようにと、この滝水を供えお祈りをした石だといわれています。

35 大徳之山隧道だいとくのやまずいどう
この隧道は、文化交流・交通の大きな障壁であった「境の尾」を切り開いています。隧道を抜けると、旧徳山村に入ります。ダム湖の湖底に沈んだ「徳之山」は、濃尾平野の水瓶であるとともに洪水災害と渇水からの守護の地です。大義の為「大徳」の心で先祖伝来の地を離れた人々への感謝の意が、大徳の文字に込められています。

36 徳之山悠久橋
「徳之山悠久橋」の名は、徳山ダムの恩恵を受ける下流濃尾平野市町村の人々が、徳のある地「徳之山」への恩を悠久に忘れてはならない、との思いと感謝の意をこめて名付けられました。この橋から間近に望む雄大な徳山ダムと、そのダムによって新たに誕生した湖水は、旧徳山村八村の人々の大きく深い徳により実現したといえます。

37 大津瀬三本松橋
「大津瀬三本松橋」の名は、「段木流し」ゆかりの地名である大津瀬と対岸の地名三本松に因んで名付けられています。大津瀬とは、境の尾の激流を下り最初に川幅が広くなる所です。大津瀬谷の出口の深い所は、つだ狩(段木流し)の港であった所といわれています。ここ揖斐川の断崖峡谷部は境の尾といわれ、また、対岸の絶壁には、姫小松の大木が三本あったことから「三本松」の地名がつきました。

38 大津瀬こえぐら橋
「大津瀬こえぐら橋」の名は、「段木流し」ゆかりの地名である大津瀬と対岸の尾根名に因んで名付けられています。大津瀬とは、境の尾の激流を下り最初に川幅が広くなる所です。大津瀬谷出口の所は地形が緩く、つだ狩の人々が川に入れる段木流しの港であったといわれています。こえぐらとは対岸の尾根名で、下流の杉原集落の人々は、この尾根を越えてさらに上流奥地の山仕事におもむいたということです。

39 境の尾一里岩隧道
「境の尾一里岩隧道」の名は、藤橋村と旧徳山村の境界をなす大尾根「境の尾」とその尾根にある岩の名前に因んで名付けられています。揖斐川にせり出した尾根の絶壁はまさしく交通の難所で、物資輸送・文化の交流がこの「境の尾」で閉ざされていました。これより上流は日本海の文化(越前の国)・下流は太平洋文化(尾張・美濃の国)の影響を強くうけてきたといわれています。尾根の頂上付近には、「一里岩」と呼ばれる岩があります。杉原の里から山の尾根に沿ってけもの道をうねうね曲がりながら来ると「一里」(約4q)の距離になり、猟師仲間の目印の岩であったということです。

40 小津瀬天狗橋おづせぐひんばし
「小津瀬天狗橋」の名は、「段木流し」ゆかりの地名である小津瀬と天狗の民話に因んで名付けられています。山には樹木を守る神様がいて、大木を伐ったり山の幸を奪ったりすると、山の守護神である「天狗」が怒り、神隠しにあったということです。この橋から見える山を越えたところの天狗谷は村から遠く離れたところで、めったに村人がいくことのない神秘的な場所といわれています。この山里では、「天狗」を「ぐひん様」と呼んでいました。

41 小津瀬もるぞ橋
「小津瀬もるぞ橋」の名は、「段木流し」ゆかりの地名である小津瀬とオオカミの民話に因んで名付けられています。昔この辺りには、熊や狸、狐、にく(カモシカ)、猿などがたくさんいて、里に降りてきては庭の柿を採ったり、畑の作物を盗んだりしました。中でも「オオカミ」は怖い存在で、ある大雨の日におじいさんとおばあさんを襲おうとしましたが、おじいさんが「もるぞ、もるぞ大変じゃ、トラ・オオカミよりも、もるぞおそろしや」と言うのを聞いて、これは大変だと一目散に山へ逃げ帰ったということです。

42 小津瀬くらしし橋
「小津瀬くらしし橋」の名は、「段木流し」ゆかりの地名である小津瀬とニホンカモシカの民話に因んで名付けられています。段木は、殿木とも言われた炊飯用の薪で、川に流した段木を年貢として下流に届けるのが、つだ狩の仕事でした。しかし、岩壁が直立する揖斐川は激流であり、つだ狩の人々は川に入ることが出来ず、尾根道を越えてやっと流れの緩やかな大津瀬・小津瀬にたどり着いたのでした。この小津瀬は、大津瀬に次いで激流の揖斐川に人が入れる数少ない貴重な場所だったのです。また、この山奥には「ニホンカモシカ」が生息していて、当地の人々は「にく」あるいは「くらしし」と呼び、その習性を伝えるいくつかの民話が残されています。

43 はるま平太郎橋
「はるま平太郎橋」の名は、「はるまの平太郎」という古狸の民話に因んで名付けられています。この橋から見える対岸の小曽谷の「はるま」には、昔「はるまの平太郎」という古狸がおり、杉原の里に出てきては、いたずらをしたそうです。村人が山仕事で「はるま」に行き、倒れた古木に鎌を突き立てたことに古狸が怒って、その嫁にとりついたこともあったそうです。

44 犬返歩危橋いぬかえりほきばし
「犬返歩危橋」の名は、「犬返り」の地名に因んで名付けられています。この橋の架かる西嶋の洞は、揖斐川が眼下にせまり、歩くのに大変危険な場所でした。昔話では猟師が犬を連れて猟に来た時、犬が尾っぽを巻いて引き返したとされる場所で、「犬返り」と呼ばれてきました。また当地では歩くのに危険な場所を歩危と称すことから、この橋名が付けられました。

45 雷倉大岩魚橋かみなりくらおおいわなばし
「雷倉大岩魚橋」の名は、対岸に望む「雷倉」と大岩魚伝説に因んで名付けられています。この橋から見える対岸の谷は「大岩魚」がすむ「小曽谷」で、その上で山頂が避雷針のようにとがって見える山が「雷倉」です。雷倉にはよく落雷があり、このような形になったと伝えられています。また、昔から雨乞いの神山としてあがめられています。小曽谷の谷川には岩魚がたくさんおり、主である大岩魚がある時坊さんに化け、山椒の毒で魚を捕る事をきこり達に戒めましたが聞きいれなかったため、谷は大雨の度に土砂崩れをおこしました。何度修復しても崩れたので、大岩魚の祟りだと言われてきました。

46 花房ビッキ橋
「花房ビッキ橋」の名は、対岸に望む「花房山」と、この山を眺めて餅をついたという「ビッキ(蛙)」の伝説より名付けられています。正月の準備のため里の人から杵と臼を借りてきたビッキが、花房山の見える眺めの良い山の上で餅つきを始めました。これを見た猿が餅を欲しがりますが、ビッキは何と言われようが与えません。猿は一計をめぐらし、臼を谷に転がし早く手に入れた方が食べるという競争を持ちかけましたが、結局猿は餅を食べる事が出来ず、怒ってビッキの背中に大きな石を投げつけました。その事があってからビッキの背中が平たくなったという話です。

47 花房猿巻橋
「花房猿巻橋」の名は、対岸に望む「花房山」と「猿巻き場」の地名に因んで名付けられています。この橋から南東の方角にひときわ高く見える「花房山」の名は、小津木地師が京都白川神祗伯の「花房太夫」の名前に因んで付けられたということです。この橋の架かる辺りから川を覗くと目が眩む程の急斜面で、「花房山」に見とれた猿がよく揖斐川に落ちたそうです。川には渦を巻く淵があり、猿が渦に巻かれたので、この地の人々は「猿巻き場」と呼んでいました。

48 藤橋川太郎橋
「藤橋川太郎橋」の名は、藤橋村に伝えられている多くの川太郎伝説に因んで名付けられています。その昔、揖斐川の各淵にはそれぞれ川太郎(河童)がすんでおり、この橋が架かる原谷と揖斐川が合流する淵は特別深かったので、川太郎の大将「川太郎大明神」が住んでいたと伝えられています。藤橋村では、この川太郎たちを川の神としてあがめ、藤橋城内に河童神社を建立して、祀ったほどでした。

49 池太沢夜叉隧道いけんだざわやしゃずいどう
「池太沢夜叉隧道」の名は、「赤池」に伝わる「池太沢の大蛇」伝説に因んで名付けられています。ある年の秋、今まで経験した事が無い大きな竜巻がやって来て、対岸の池太沢にすむ大蛇が竜巻に乗って空に舞い上がり、この隧道の下の赤池に舞い降りました。赤池で休んだ大蛇は次の竜巻に乗って天上に舞い上がり、揖斐川を下り、坂本川を遡り、坂本・広瀬・川上川を経て夜叉ヶ池に入ったと伝えられています。三国ヶ岳の山頂にある夜叉ヶ池の主「竜神」の故郷は、池太沢と言われています。

50 鶴見杉原橋
「鶴見杉原橋」の名は、当地の地名「大字鶴見」と「旧西杉原村」に因んで名付けられています。「鶴見」は、杉原砦の城主「杉原六郎左衛門家盛」が砦に一羽の鶴が舞い降りる様を見た故事に因み、「杉原」は、その地名のごとく見事な天然杉が群生していたことから付けられたものです。橋のたもとの「武山神社」境内の杉は、当時の面影を残す生き証人です。

51 ションダニ鳴瀬橋
「ションダニ鳴瀬橋」の名は、橋の架かる谷名と揖斐川に架かっていた鳴瀬橋に因み名付けられました。
谷名の由来は定かでありませんが、初谷と想像されています。ションダニは、シッ谷に、シッ谷は揖斐川に注ぎ、揖斐川には「鳴瀬橋」が架かっていました。
湖底に眠る(旧)鳴瀬橋は、通称「徳山橋(とくやまはし)」と呼ばれ、西谷の集落(門入・戸入・上開田・下開田)と東谷の集落(塚・櫨原・山手・本郷)を結ぶ大切な橋で、橋の袂には、風が吹くと鳴く「鳴岩(なるいわ)」という岩があり、徳山村の名物となっていました。

52 不徒路歩危橋ふつろほきはし
「不徒路歩危橋」の名は、橋が架かる周辺の呼称地名「不徒路(ふつろ)」と、祖先が危険を伝える「歩危(ほき)」地名に因み名付けられました。
当地には、不徒路のほかに蛇抜け・マキホキなどの警告地名が残されています。アラシ・ムツシと呼ぶ山畑に、険しい山道を行き来した、祖先の苦労が偲ばれます。