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旧吉野川の歴史

河口の新田開発

 吉野川下流の海に近い地域での新田開発は1585年(天正13年)から始まり、その後17世紀にかけて大規模な開発が行われ、農業用水の大部分は今切川や現在の旧吉野川から取水されることになりました。

新川の開削

 昔の吉野川は、現在の旧吉野川を本流として南から北へ流れていました。現在の第十堰の下流には別宮川と呼ばれる川が流れていました。

 一説によると、1672年(寛文12年)第四代徳島藩主の蜂須賀綱通が徳島城の堀に導水し、舟運の便を図るためにこの2つの川を最短でつなげる水路を開削したところ、水のほとんどが別宮川へ流れ込み、吉野川では水量が激減しました。

第十堰の設置

 板野郡の下板地方は海が近くにありますが、旧吉野川の豊富な水量によって海水の流入がほとんどなく、水田を主とした穀倉地帯となっていました。

 ところが、新川の開削以後、旧吉野川や今切川の水量が激減し、渇水時に海水が河川や地下水に流入する塩害が頻発するようになり、塩害で米が収穫できず、農民は年貢を納められなり、村から逃げ出す者も多かったという記録が残っています。

 下板地方の不作で困ったのは年貢を取れなくなった藩も同じで、1752年(宝暦2年)、農民からの嘆願を受けて新川せき止め工事に着手し、その結果第十堰が完成しました。その後、別宮川の河道の変化に応じて継ぎ足し等の増改築が行われました。

第十堰
第十堰

上堰の設置

第十堰上流の河道が東西方向に変化したことにより、川の分派点付近では堆砂がいちじるしくなり、吉野川下流へ水が流れにくくなったことから、より導水しやすくするための上堰を築き、現在のような2段堰となりました。

第十樋門の設置

上堰を設置しましたが、堆砂傾向は続きました。そこで、1923年(大正12年)に改修工事で分派点を第十樋門に付け替えたことにより、現在の吉野川の河道が完成しました。

第十樋門
第十樋門

吉野川の呼名改称

 1932年(昭和7年)、別宮川を「吉野川」に、第十樋門地点から流れ込んでいた吉野川を「旧吉野川」と呼名を改め、今日に至っています。

旧吉野川年表
1585年(天正13年) 吉野川下流新田開発始まる(16~17世紀にかけて大規模に行われる)
1605年(慶長10年) 慶長南海地震 阿波国・土佐国(現在の高知県)・紀伊国(現在の和歌山県)・伊豆国(現在の静岡県)で大津波がおこる
1672年(寛文12年) 新川堀抜き 新川(別宮川:現在の吉野川)が本流になり、旧吉野川は水不足になる
1707年(宝永4年) 宝永南海地震 マグニチュード8.4、死者2万人、潰家6万、流出家屋2万。阿波国に大津波がおこる
1752年(宝暦2年) 第十堰の築造 旧吉野川の利水がよくなる
18世紀後半~19世紀前半 天明・文化・天保の大飢饉 風水害と蝗害(イナゴの食害)が原因
1801年(享和元年) 享和元年の洪水
1849年(嘉永2年) 嘉永の大水(別名「阿呆水」)中喜来、広島などが洪水になる
1854年(安政元年) 安政南海地震・安政東海地震 阿波国で200人以上の死者がでる
1857年(安政4年) 安政の大水住吉新田などの堤防が切れる
1866年(慶応2年) 慶応2年の豪雨徳島平野全域が大洪水にみまわれる
1892年(明治35年) 台風と高潮で豊岡海岸堤防が全壊
1912年(大正元年) 大正元年の洪水 徳島平野全域が大洪水にみまわれる
1932年(昭和7年) 別宮川を「吉野川」、第十樋門地点から流れ込んでいた吉野川を「旧吉野川」と呼名を改める
1934年(昭和9年) 室戸台風 県内死傷者・行方不明者384人、被害家屋2万数千戸に及ぶ
1946年(昭和21年) 南海道地震 県内で死者202人
1949年(昭和24年) 水防法制定・水防団設置
1950年(昭和25年) ジェーン台風 長原漁港、豊久大手海岸堤防などが決壊する
1961年(昭和36年) 第2室戸台風 松茂町内堤防29か所が決壊し、被害家屋約1500戸に及ぶ
1971年(昭和46年) 板野東部消防組合設立
1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)

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旧吉野川河口堰管理所

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