吉野川橋
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【番外編】吉野川橋のはなし


 吉野川橋は、河口から約4キロメートル上流の吉野川に架かる橋であり、JR徳島駅で降りて旧吉野川河口堰管理所に来られる際には、バスやタクシー等を利用しても、徒歩で頑張る場合でも、必ず渡る橋です。
 吉野川橋の長さは、1,071メートル。歩いて渡ると10分くらい掛かります。橋のタイプは、『単純曲弦鋼ワーレントラス橋』というもので、17の水色のアーチが連なる、とても美しい橋です。この橋が完成した1928年(昭和3年)当時は、東洋一の長さを誇ったとのこと。なお、第十堰から下流の吉野川は、「別宮川(べっくがわ)」という、吉野川の支川でしたが、この年(1928年)に、別宮川から「吉野川」に名称変更して吉野川の本川となり、併せて、本川だった第十樋門から下流部の吉野川が「旧吉野川」に改称されました。つまり、吉野川橋は、当初は別宮川で架橋工事を行っていたことになるのですが、別宮川を吉野川へ名称変更することは何年も前から決まっていたということでしょうか?それとも、別宮川に架けても吉野川橋という名称にすると決めていた?いやいや、そんな筈はない・・・。謎が残ります。
 閑話休題、この吉野川橋は、完成から既に90年以上が経過していますが、これまで大切に維持補修されてきており、今も現役バリバリです。
 では、この吉野川橋が架けられる前は、どうなっていたのでしょう。

吉野川橋
 そこには、個人が架けた「古川橋」という木製の橋がありました。因みにそれ以前となると、当然ながら舟による「渡し」が主流となります。吉野川と旧吉野川沿いには、110箇所以上の渡し場が設置されていたそうです。古川橋のところにも、「古川渡し」という渡し場があり、橋が架けられる前は勿論、架橋後も洪水で橋が流失する度に渡し舟が活躍しました。
 話を古川橋に戻しますが、現在の吉野川橋の左岸側のたもと、橋から90メートルくらい離れた、県道39号線(徳島鳴門線)の道端に、大きな石碑が建っています。

吉野川橋のたもとに建つ石碑(豊川翁之碑)

 石碑には達筆で「豊川翁之碑」の文字が彫られています。裏面には「豊川翁」への表彰状が刻まれていますが、残念ながら今は容易には見られない状態となっています。
 そしてこの豊川翁こそ、明治から昭和の初めを生き、古川橋を一生懸けて守り通した人物、豊川仲太郎(1868~1927)なのです。
 仲太郎は、現在の徳島市川内町沖島の、庄屋であった豊川家の長男として生まれました。豊川家は、明治維新後に材木商となり、土木請負業も経営していました。その頃には、応神町古川に住む寺沢六兵衛(諸説あり)が架けたとされる古川橋がありましたが、当時、吉野川の洪水で何度も流失し、地元では橋の維持に困っていました。
 この古川橋を買収して、その後、吉野川橋が架かるまで39年にわたって守り続けたのが豊川仲太郎でした。古川橋を買収したのは明治19年(1886年)ということなので、仲太郎はこのときなんと18歳。買収した額は分かりませんが、凄い人物がいるものです。買収後も、古川橋は洪水で何度も流されましたが、仲太郎は、舟を橋脚の代わりに利用した浮橋とし、洪水が来る前に橋を舟とともに避難させる工夫をしたり、橋梁の杭や板の全てに「豊川」の焼き印を押して、洪水で橋が流された時にそれを目印に河口の方まで回収に行って、橋を修復したそうです。こうした仲太郎の功績を讃えるため、この石碑が建てられました。(出典:とくしま橋ものがたり(徳島県))
豊川翁之碑
豊川翁之碑(裏面)

 旧吉野川河口堰および今切川河口堰にお越しの際は、吉野川の散策がてら是非お訪ねください。

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